ソロ=デュエットが描くスペクトラムのゆくえ:ジョルジュ・ラバット『SELF/UNNAMED』

「ソロかつデュエット」—果たしてそんな状況が生まれ得るのか?フランス人振付家・ダンサーのジョルジュ・ラバットは『SELF/UNNAMED』で究極の答えを導き出している。

 

ほぼ全裸のラバット、若干前屈み姿勢をとったレジン製の同氏の「分身」との間で繰り広げられる約50分間の作品の冒頭、暗闇の中に登場したラバットは舞台中央に立ち、何かを静かに振り回し始め、次第に物体が空中を切る音はノイズへと増幅する。やがて縄の先に振り回していた球体が発光し、ラバットは頭上でそれを勢いよく振り回す。

 

音は中断し明転、ラバットは客入り時から舞台上手に横たわっていた分身に寄り添うよう寝そべる。穏やかに分身に触れゆっくりその体位を変えていき、やがてひとときも手も視線も離すことなくともに「踊る」。不動の物体と人間のあいだで「踊れる」ことといえば限られるのは明らかだが、ラバットは考えうるあらゆる物理的関係性—分身と自らの距離感、触れる場所、角度—のゆるやかな変遷を刻々淡々と噛み締めながら、あらゆる「関係」を静寂の中で表象し続ける。慈しむように抱いたり、曲芸の相方のように手のひらに足を乗せたり、分身の手を肩や頭に引っ掛けたり。均整のとれたラバットの肉体、照明を透過、反射しながら命を吹き込まれたような分身のあいだで、コミカルにもセクシュアルにもプラトニックにも映る関係性のスペクトラムが形成されてゆく。

しかし何度かラバットが分身から手を離すと、冒頭の不穏な音が轟き「現実」に戻ってしまう。それは母親が離れると泣き始める赤子、共依存する者同士の姿か。音が鳴り止むようすぐさま分身へ手をつけるラバットも、その顔面や首元を掴み振り回し、頭を自身の胸元に強く打ちつけるなど次第に扱いが粗野になっていく...いや、頭を打ちつけラバットの肌を腫らした分身も次第に暴力性を帯び「させられ」、駆け引きは静かに火勢を強める。

途中ソウルフルに《何があろうと君の元へ駆けつける / どんな山も谷も乗り越えられる》と歌う曲のもとで恍惚としながら分身を振り回す—あるいは振り回される—ラバットは滑稽にも狂気的にも映り、観客も傍観者としての立ち位置をぐらつかされる。

結果、支配され隷属しているのはどちらか?轟音が響き渡り明転と暗転が繰り返される中、ラバットと分身が決別するラストは希望とも絶望ともつかない。

 

本作は「マゾヒズム」の語源となり支配・被支配が発生する恋愛関係を多く描いた作家、マゾッホの著作をリサーチすることに端を発している。支配の主導権を他者に委ねるマゾヒズムのみならず、支配構造が入れ替わることで生じる複雑な奥行きまでをも描ききったのは、ひとえに意図を排した物体、しかも自己(SELF)との最小限の対比である「分身(UNNNAMED:無名)」が登場したことの功績といえる。

どんな関係性も個人の欲望が少なからず作用しあう。作用のふとした弾みで関係性は愛にも暴力にも転び、意図せぬ支配構造を生む可能性をいつだって孕んでいるのだ—ラバットと分身のダンスのように。誰しもが、他者とのソロ=デュエットを踊りうるのかもしれない。

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